ないものねだり。

障害があっても強く生きていきたい。

普通という言葉の存在意義を一人考えていた。

昔から「普通」という言葉が苦手だ。

それは「普通ってなに?」みたいな浅い疑問でもなく、私にとって「普通のこと」は「普通」として認識していないから。

たぶん「普通ってなに?」を問う人は、普通を理解していないよりかは、「普通」に染まりたくないだけなのではないかと思っている(これは偏見)

もしくは「普通のこと」に気づいていないか見ないふりをしているのか。

 

私の今の生活(毎日仕事や家事などの同じこと繰り返すこと)をこう思う人たちから見たら、「普通」というのかもしれない。

でもそれを私は、普通と認識していない。

当たり前の生活と認識していないという意味だ。

毎日仕事をして家事をして寝る生活を私は特別なことのように感じる。

それは今まで私が求めていた憧れていた生活だからだ。

同じことを積み重ねていく日々は決して当たり前でも普通にできることでもないと、私は知っている。とても難しいことで、それかどれだけ大変なことか分かっている。

そういう当たり前の生活や事柄を簡単に「普通」という2文字で終わらせるのは間違っていると思う。

 

これは、私の感覚だけれど最近そう思うようになった。なんていうか私のように深く考えず日常的に「普通」という言葉を使えている人は幸せものだとも思う。

 

私には勿体無い言葉のようにも思う。

そんなことを考えていた。