一日太宰治を読み漁っていた。
純粋に楽しかった。
私が求めていた人生がやっと今ようやくわかったような感覚だった。
殴るように文章を書いていた。
久々に描く言葉が楽しかった。
頭の中がぐるぐる回ってたくさん言葉が出たことがとにかくたのしくて止まらなかった。
初めて東京で、kに憧れkになりたい一心だった。
でもkになれなかった。
私とkには確実に違う価値観があったからだ。それは人への(思いやり)だ。
私は人を思いやったことなどない。人の幸せを心から願ったり、人と喜びを全く共有できたことがなかった。それは物心ついた時からずっと。表向きは言葉では感謝や喜びを分かち合ってきたけど、自分にしか興味がなく、人の喜びなど自分の喜びにはならなかった。
普通の人なら他人の喜びは自分の喜びになるのにそれが欠如していること。
そして友達や仲間もいらないこと。孤独こそが美しく私が私らしくいられる。精神が病んでいる私が私は好きなこと。東京へ行って他人をたくさん傷つけてきたことに全く申し訳ないとも思わないこと。婚約破棄をしたことも、心から申し訳ないなど思ったことがない。人を傷つけ人を裏切る私が本当の私だということ。
ではなぜ私がそんな自分を求めて尚且つ自分を認めているか。
それは、私が「どこまでも罪深い人生」を求めているからだ。
罪深いとは、人を踏み台にし、傷つけ裏切るということ。
それしかわたしには生きる術がない。
でも私そんな私が一番好き。
東京に行ったのも
堕ちるとこまで人生を堕ちたかったから。堕ちることの意味は私の人生の表現がそこでしか生まれないから。堕ちた時にしか生まれない言葉や文章があるから。
「他人を犠牲にして成り立つ芸術」
これを私は生涯求めている。
だから文章を書いている。
理解はいらない。
共感も。
私はこれからも人生を壊して生きていきたいと強く思う。壊してこそ書ける絵や文章がある。
私は今もこれからも
ずっと地獄を見たい
地獄に落ち、表現したい
どこか精神が壊れていないと
言葉も才能も生まれない
人間失格だがそれでいい
これから仕事をしながら
小説や文章をかいている
それはフィクションなどではない
後悔はない
これは誓ってない
まとまらない文章だが、私は文章を書きたい。そして本を出したい。
わたしは人間失格だが
それでいい
だから東京にもどって刺激的な経験をし最後に生きた証として