エーリッヒ・フロムの「愛するということ」
愛するには努力と知識が必要だ。という冒頭の文章が印象的だった。
今でもこの本を読み返すたびに自己愛や異性愛、親子愛について考えることがある。
愛するためには性格が生産的な段階に達していなければならない。
この段階に達した人は、依存心、ナルシシズムな全態感、 他人を利用する、ことなどの欲求を克服している。
この文章はこれからの人生も私の教訓。
私は今精神科に通いながら、境界性パーソナリティー障害と向き合っている。
境界性パーソナリティー障害のせいで、一番辛いことは大切にしたいと友達や恋人を私の暴走により失った事だった。
何故か暴走の対象はいつも恋人や友達など大切な人だけ。
他人には仮面を被ったように愛想を振りまくことができる。
だから「接客業に向いている」「気が使えて良い子」なんて言葉も言われたことがある。
愛想を振りまけるのは、他人に全く期待していないから。だから深い友達も少ない。
逆に大切な人には、自分のことを大切にしてほしい、見捨てないでほしい。という感情が強すぎて少しでも蔑ろにされたと感じると、悲しみが徐々に怒りに変わってくる。泣き喚いて壁を殴ったり相手を罵倒してしまったり。その後は急に我に帰り、自分のしてしまった事を猛省し、自分はなんてことをしてしまったんだ。最悪だ。またやってしまった。と自己嫌悪に陥り自傷行為を繰り返してきた。
自分のこの症状を見て暴走を止めようと、恋人や友達は毎日一緒にいてくれ私が不安にならないように配慮してくれたが、疲れ果ててしまい自ら病んでいったり、もう限界と言わせてしまった。
「怒る事を責めないで。怒らせる事をしなければいいじゃない。」「私を理解してくれない相手が悪い」と自己中心的に考えていたが、診断され自分がおかしいのだとようやく気づいた。
この先、私の病気を理解してくれる人が現れ私自身変われるのか本当に不安になる。恋人と別れるたび死にたいといまだに思う。捨てるくらいなら私を殺してほしいと思ってしまう。
わたしはもう大切な人を失うのが本当に怖くてもう恋人や友達を作るのがこわい。
病気だからって人を傷つけていい理由にならないことくらい私が一番わかっている。
だから人に嫌われることもわかっている。
ただ大切な人だから理解してほしい。
そういう気持ちだけなんだと思う。
この病気の人たちみんな。
大切な人に自分を理解してほしいという気持ちの伝え方がわからなくて暴走や罵倒をしてしまう。相手との距離の詰め方も下手だし、生きてる価値ないと思われても仕方がないか。
境界性の人と接するのは、溺れている人に近づくのと似ている気がする。
助けようと思って善意をもって近づいたら、暴れて一緒に水の中に沈んでしまう。
私と関わる人は、自分が溺れない事が第一なんだ。
風を慈しんだ
過去を悔いて死んだ君を絶対に忘れない
眩い日々も霞んだ日々も忘れない
過去に縋って生きてると言われても
私は忘れない
私に降り注ぐ痛みは私が君に背負わせた痛みだと受け止めて生きていく
今私が幸せなのは君が少し私を許し始めたからなのか
全うに生きる事を諦めていた時がある
その時の感情を忘れないためにメモを残したりもしていた
数年後同じ気持ちになれるのか?
その時の気持ちを見て今どう感じるのか?
そういう感情を振り返ることを私は大切にしている
数年前までの悲惨なメモを見て
私は昔の気持ちに共感できなかった
理解はしたが共感はできなかった
共感できなかったことで、私は数年前より全うに生きているということだ
嬉しかった
今はこの日常を崩したくなくとも
今の生活に慣れ飽きてしまう事が怖くもなる
飽きて高みを目指したくなったり
今に満足できなくなったり
ないものねだりをした時
私はどこで誰と生きるだろう
私は今なにかを求めていて
それが何なのか掴めない
この先ずっと掴めないように
掴めないままでいいのかもしれない
昨日まで落ち込んでいた気分も今はどうでもよくなり今日は普通に過ごせた。
境界性パーソナリティー障害(ボーダー)は、情緒が数時間で上がったり下がったりする。昨日病んでいたって今日はもうへっちゃらになった。恐ろしい病気。
もう吹っ切れて病気を受け入れながら生きていくしか方法はない。例えば情緒が毎時間不安定でもそれでもいいと思った。精神疾患が治るわけでもないのに今更変えようなんて馬鹿らしくなった。私は今頑張って日常をこなしているんだからそれだけでいいと思う。
たとえ大切な人を傷つけたって私にはどうしてもこの精神疾患を治すことは不可能だ。相手に申し訳ないと思いながら、私には相手を何故不快にしたり傷つけたりしたのか自分がしたことのなにが悪かったのか、一生わからない。分かろうとしてもわからない。
だからなるべく迷惑をかけないようにしかできないことも学んだ。
精神疾患を受け入れてそのままの自分で生きていくしかない。無理に変わろうとしたって碌な事がないことも学んだ。
私は変わらず精神疾患を抱えて生きていく。
依存だって治らない。
煙草に依存したり自分に傷をつけたっていいじゃん、。
そう思うしか道はない。
だから明日も変わらずに生きる。
少しでも気分の落ち込みを感じると私は結局のところ一生この精神疾患は治らないんだと絶望する。今日だってそうだった。よく考えてみればこの半年の間落ち着いた精神で生きてこれたのは、私の力なんかじゃないと思うんだ。
周りが助けてくれたから。
それだけに過ぎないと。
どうせ私の根本は変わらないのかもしれない。
一つ自信をなくすたびに、また入院という逃げを使いたくなる。
こんな精神が安定しない私と何故一緒にいてくれるんだろう。
私はやはりなにかに依存しないと生きてはいけないみたいだ。
ストレスが溜まると自傷行為に依存してきた。
バランスをうまく保ってきた。
今はそれがないことがストレスで、負のループに陥りそうだ。
今日、わたしはふと「あ、やってしまっている」と思うことが多々あった。
特にそう感じたのは料理をするとき。
どの順番でこなすのが正解か、もしくは効率よくこなせるか頭の中でぐるぐる考えたけっか同時に何品か作ることだと思った。その気持ちと美味しくて完璧なものを作りたいというこだわりが私を混乱させたと思う。
一品一品作ればよかったと反省した。
私は料理を作っている時、例えば洗い物が溜まっていたりどこかが汚れていたりするとそっちに注意がいってしまってパニックになる。
特に何品もつくる場合、頭の中での手順と今起きている現実に追いついていけずにいた。
料理は本当に苦手なのかもしれない。
作ること自体は好きでも、なにかにメモしてみながら作った方がいいかもしれない。
私が混乱している最中、相手も混乱させてしまっていたらどうしようとか、変な憶測を生まないかという心配もあった。
私は自己否定をした。
私はやっぱりダメなのかもしれないと落ち込んだりもした。
今日は頑張って美味しい物を作りたかった。
ちょっと落ち込んだ。
料理は難しい。
「おいしさ」を優先したらキッチンはぐちゃぐちゃ
「効率」を優先したら同じくぐちゃぐちゃ
「時間がかかっても一品ずつ作る」を優先しても時間がかかり料理は冷めてしまう
同時に物事をこなせるほど器用にはできない。