ないものねだり。

障害があっても強く生きていきたい。

全うとは

生きる速さを間違えていた事に気づけたのは、最近になってから。
 
時間は平等なのに、以前は感じられなかった心地よい流れを、今、感じることが出来ている。たぶんそれは何にも縛られず咎められない生活を手にしているから。怠けていると言われればそうかもしれない。ただたまには、怠ける時間が必要な時もある。
 
一年前のわたしは、何に生き急いでいたのだろうか。
あの頃の私は、都会での日常が荷の負担になっている事に気づけなかった。
当たり前のように聞こえる電車の音や、街中に溢れる人の声。それらは私にとってただストレスでしかなかった。
 
耳に入る情報があまりにも多すぎて、自分の声や大切な人の声を聞くことがなかった。聞かないふりをしていたのかもしれない。
 
都会を離れると大切な声を聞かざるを得ないのだ。自分や周りの声と向き合わなければならないのだ。
向き合う事が苦しいけれど
向き合ってみると不思議なことに、大切な事は身近にあったり、なにげない事に
喜びを感じることができる。
 
気づけばあの頃は、周りと比べて
人とは違うことをしたくなったり
視野を広げるとか価値観を広げるとか
そんな理由を付けて、ただ勢いだけで
都会という場所に飛び込んでいた。
それが正しい事だと信じていた。
 
若々しかった。
 
真っ直ぐに飛び込んだはずなのに
いつのまにか真っ直ぐではなくて
行き当たりばったりだった。
それでも「何か」を求めることを
辞めなかった。辞めてしまえば、死んだも同然だとどこかで決めつけて。
 
「何か」を求めれば求めるほど
期待は裏切られたし、ただ心は寂しくて、失ったものの方が多いんじゃないかって最近思うんだ。
 
心は成長しなかった。
 
経験値だけ増えて
要らない情報だけが身について
結局スタートラインに戻っただけ。
随分、遠回りをした。
 
 
「安定などしたくない、」
「真っ当に生きたくはない、」
「刺激を求めて生きたい、」
 
こんな生き方を望まなくなった私は、歳をとったなと感じるけれど、これらの生き方より、「真っ当に生きる」事の方が難しいんじゃないかと思うようになった。
安定や平凡や真っ当って
案外難しい生き方だけれど
追求してみたくなった。
 
今日は上手く出来た!とか
今日も生きられた。とか
当たり前を噛み締めて生きたい。
 
今私は、真っ当に人生を生きたい。